2021年2月25日 晴
こんにちは、前回からの続きということになります。「バブル後の長期不況」とはどういう
事だったのか。記憶で残っているのは山一證券、拓銀、住専などですが、これは記憶ですか
ら。あいまいなところがあります。検索やwkiさんの記録を調べたほうが正確ではありそう
です。ここでwikipediaから引用させていただきます。全文となるとさらに文字が増えます
この程度で少しは解明の役に立つかと思います。
次からwikipediaから引用です。
日本銀行による急速な金融引き締め(総量規制)の事実上の失敗を端緒とした信用収縮と、在庫調整の重なったバブル崩壊後の急速な景気後退に、財務当局の失政、円高、世界的な景況悪化などの複合的な要因が次々に加わり不況が長期化した。銀行・証券会社などの大手金融機関の破綻が金融不安を引き起こすなど、日本の経済に大打撃を与えた。
多数の企業倒産や、従業員の解雇(リストラ)、金融機関を筆頭とした企業の統廃合などが相次いだ。この10年で本来通り成長していれば、100兆円得られたという試算もある[2]。1991年(平成3年)3月から始まった「失われた10年」としての期間は、バブル崩壊(平成不況)に始まり、小泉構造改革によって2002年(平成14年)1月を底とした外需先導での景気回復(いざなみ景気)により終結したとされていた。
ただし、この期間中にも、1993年(平成5年)末頃から1997年(平成9年)前半頃まで、カンフル剤注入政策(公共投資による景気回復政策)による「カンフル景気」または、「さざなみ景気」(景気拡張期)、その後の「金融不況」(景気後退期)、1999年(平成11年)初頭から2000年(平成12年)春頃にかけての「IT景気」(景気拡張期)と、その後の「IT不況」(景気後退期)で景気の波はあった。ちなみに、その後の景気回復は、6年1ヶ月の長期間であったため、「いざなみ景気」と呼ばれたが、「だらだら陽炎景気」や「小泉景気」とも呼ばれた。その後はアメリカ合衆国で起こったサブプライム住宅ローン危機をきっかけに大不況(「世界金融不況」、「世界同時不況」)に陥った。
1992年から2002年までの長期停滞の原因について[3]、研究機関や学者などが多くの研究成果を発表している。停滞の具体的な要因として、主に3つの要因仮説が挙げられている。
経済学者の斉藤誠は、日本経済の長期低迷をもたらした主因は、資源価格の上昇と輸出産業の競争力の衰退による交易条件の悪化だとしている[5]。
経済学者の原田泰は「『失われた10年』は、労働投入・資本投入の低下によって引き起こされた」と指摘している[6]。原田は「TFP(全要素生産性)の変動については原因は解らないが、労働投入の変動(減少)については実質賃金の上昇という原因が解っている」と指摘している[7]。
その他には以下の要因仮説が挙げられている。
社会状況[編集]
企業においては、1990年代後半からはデフレーションに対応する形で、優良企業では有利子負債の圧縮が進展し、高度経済成長末期から続いていた日本企業の過剰なレバレッジ体質が抜本的に転換され、財務体質が改善された。この企業行動は当時においては停滞の要因であったものの、財務基盤が強化された強力な企業群が形成された。流動資産を抱え込み過ぎて資本効率の低下した企業も生まれ、流動比率が高すぎる場合には遊休資産が多いとみなされ、買収の標的になるとの指摘もなされた。
労働面では、他の世代に比較して世代人口の多い1970年代生まれが社会に出る時期であったにもかかわらず、企業が採用を削減したことから就職難が深刻化し、就職氷河期と呼ばれる状況が続いた。長期にわたる不景気がデフレーションを誘発し、労働者の給与は減少傾向をたどり、非正規雇用によるサービス業従事者が増加した。
消費者の観点からいえば、デフレーションによる低価格で質のよいモノやサービスを提供する企業が増えていった時代である(良いデフレ論争参照)。衣料品ではユニクロが、小売業で100円ショップが広がっている。
従来、不況といえば消費全体に落ち込みが発生するのに対し、失われた10年においては、従来、みられなかった産業形態の発達や、特定のサービスへと顧客が集中する流行現象など、不況下にあっても好成績を出す業態の存在が注目を集めた。ニッチ市場や高付加価値サービスの発展、あるいは時間的余裕で経済的な不足を補う旅行形態の流行など、いくつかの特徴的な市場の動向も注目を集めた。また、バブル景気の時代には大衆の国外旅行が急速に増加したが、この傾向は同期間において、「短い余暇を有名な観光名所めぐりと買物で過ごす」という形態から、「多少長い余暇をあまり有名ではない名所にまで足を伸ばす」や「繰り返し特定地域に足を運び、密にその地域を楽しむ(リピーター)」という形態もみられ、バブル景気の頃に主流であった気忙しいパック旅行から、「豪華客船の旅」や「貧乏旅行」、青春18きっぷなどによる「鉄道旅行」などのようなシフトもみられる。この中には、定年退職した者の夫婦旅行や失業者の長期旅行など、従来では「慎ましく暮らす」という状態が当然であった人たちによる旅行形態も含まれる。
この時期、1993年卒(1992年度卒業)から2002年卒(2001年度卒業)にかけて就職活動をしていた大学生、専門学校生らは非常に厳しい就職活動(就職氷河期)を強いられていた点でも、特徴的であり、彼らは氷河期世代もしくは失われた世代(ロストジェネレーション)と呼ばれている。
日本の労働分配率は、1990年頃は60%程度の水準であったが、バブル崩壊以降上昇し、2000年時点では約70%となっていた[8]。経済学者の竹中平蔵は「売り上げが下がっても賃金は下げられないため、企業収益に対する労働分配率が上がってしまった[9]」「バブル崩壊後も日本の企業は雇用をできるだけ守り、賃金を引き下げないように努力してきた。労働分配率の上昇は、資本分配率の低下を意味する[10]」と指摘している。
経済学者の原田泰、江川暁夫は、1990年代の経済停滞における実質賃金の上昇が、雇用を減少させたとしている[11]。
原田らは、
- 1990年代を通じたデフレ効果
- 週40時間労働の導入による時間当たりの賃金の上昇効果
という2つの効果が相乗して、実質賃金の大幅な上昇を招いたとしている[12]。
経済学者の田中秀臣は「名目賃金の下方硬直性の緩みが、日本の長期停滞が生み出した雇用システムの『痛み』である」と指摘している[13]。
1998年末時点で日本の不動産の価値は2797兆円に及び、住宅・宅地の価値は1714兆円と不動産全体の約六割を占めていた[14]。1998年末の土地資産総額はピーク比で794兆円、株式資産総額は同じくピーク比で574兆円減少している[15]。
金融システム危機[編集]
金融行政においては護送船団方式が焦点となった[16]。以下の銀行・証券が破綻した[17][18][19][20][21]。
1991年以降2003年度までで181行の銀行が倒産し、1992-2002年度まで預金保険機構が救済金融機関に援助した資金の総額は25兆円となった[22]。
三洋証券はコール市場にてデフォルトを起こしたため、無担保コール市場が大混乱に陥った。これにより、金融市場は連鎖的な信用収縮を招き、事態は一気に金融恐慌の様相を呈していった。日本長期信用銀行に対して税金約7兆9,000億円を投入後、外国投資組合が10億円で落札するという異常な状態になっていた。金融当局や政治が正常なら税金投入案件を外国企業に売却するのは認めないのが通常であり、金融当局や政治がほとんど機能していない状態であった。
逆ザヤを抱えた保険会社の中には、更生特例法を申請し破綻する会社が現れた。
ここまでwikipediaから引用です。